ひとり映画日記2

映画・本・イギリス(アメブロ『ひとり映画日記』から引っ越し

お葬式はかくも滑稽なものか 2023.05.21

 5月X日

 

  立川シネマシティで伊丹十三『お葬式』を観る。

『お葬式』は東京から帰ってきた男性の、アボカドにうなぎという豪華な食事の場面から始まる。男は妻と「妾をもつかどうか」なんてしょうもない話をしている。しかし、その晩男は苦しみ病院へ向かい、そして死んでしまう。彼の娘は女優をしており、その夫も俳優(彼が主人公)だ。彼らのドタバタお葬式が始まる。

 お葬式ってめんどうくさいなと正直思った。そして誰も、「マナー」なんてわかっちゃいないのだ。主人公たちもビデオテープを見ながら予習(?)している。納棺、お坊さんに連絡(仏教徒なら)、通夜、お弁当の準備、弔問客へのあいさつ、出棺.....。『お葬式』というタイトルだけれど全然哀しくない。途中なんて主人公の不倫相手が来て葬式どころではなくなっていた。笑ってしまうけれど、どこか「しょうがないな」と呆れて「許している」感じ。ただしそれにしても、男性がひたすら飲み食いして女性が給仕する冠婚葬祭や親戚の集まりはほんと嫌。男性の動かなさにはびっくりだ。

 

 映画の帰りに伊丹十三の『ヨーロッパ退屈日記』を借りてみた。そこに書いてあること曰く。

 

 

現在の映画が、撮影所製のだんどり芝居の域を抜け出て「実在性」を取り戻そうとするなら、わたくしの場合、その推進の軸となるものは「日常性」をおいてないと思います。

 そしてまた、作家の想像力が一番あらわな形で出る場、というのも日常性の創造をおいてないと思うのです。(「想像力」p.31)

 「想像力のない」例として、ある映画で夫婦が登場する場面が挙げられている。映画では二人が「夫婦」であることを表すため、台所で家事をしている妻、そこへ帰宅する夫、二人のキスシーンを入れている。それは「これ以上安易で、投げやりな想像力があるでしょうか」と言いたくなるものらしい(p.31)。

 ここを読んだとき、『お葬式』のお経の場面を思い出した。お坊さん(ちなみにお坊さんを演じるのは笠智衆である)がお経をあげるよこで正座をしている大人たちがもぞもぞと動かす足が次々クローズアップされる。ここが可笑しいし、情けないし、リアルだ。正座ってつらいものね。これが「日常性」なのかなあ。

 

もっとダークで皮肉な映画かと思っていたので拍子抜けしたけれど、まあまあ面白かった。

 

『お葬式』

監督:伊丹十三

1984年 日本

立川シネマシティ「午前10時の映画祭」