ひとり映画日記2

映画・本・イギリス(アメブロ『ひとり映画日記』から引っ越し

大島渚『絞死刑』

 映画館に行かないと気が済まない。仕事中、脳内は「仕事が終わったら大島渚仕事が終わったら大島渚大島渚」と唱え続けていた。

 

 『絞死刑』を観ました。(以下結末に触れています)

 いきなり、死刑に関する世論調査の結果が表示され、死刑制度廃止に反対の人は、死刑場を見たことがありますか?執行について知っていますか?と聞かれる。そこから長い死刑に関する説明。ドキュメンタリーかと思った。

 しかし、死刑にされたある人物「R」の心臓は止まらず、「Rの身体は死刑を拒否した」。しかし、意識を失っている者を死刑にすることは法に反するというので回復させると、Rは自分がどこにいるかもわかっていない。罪の意識を感じたうえで刑に処せられなければ意味がない(こういうところだけ真面目な執行者たち).......じゃあやっぱり刑は執行できないじゃないか!と、居合わせた担当者や医師は、Rは誰でどんな罪を犯したのか、本人にくどくどと説明を始める。そのうち、全員がRや被害者になりきるというロールプレイが始まり、混沌としていく......。

 最初は、死刑場の場面が怖く、こんな怖い映画だったのかと思ったけれど、説明の場面になるとかなり滑稽。もはや本末転倒というか、皆説明に必死で死刑はどこかに飛んでいく。刑の執行に関わるのは日本人男性と思しき者ばかりだが、被害者の女性を演じたり、在日コリアンのRとその家族になりきったりする。Rが「朝鮮人ってなんですか?」「家族って何ですか?」と問うと誰も答えられないように、人種や国やジェンダーはとても曖昧なものだということが明らかになっていく。本当に、小さなことでは血液型から大きなことでは人種まで、人間って分類が大好きだと思う。

 けれどどの場面でも、日の丸を背後に誰かしらが真っ直ぐ前を見ており恐ろしい。本当は曖昧でも、線を引いてあたかもそれが自明のように振舞う人はたくさんいるのだ。

途中、集中力が途切れもしたものの面白い映画だった。誰かが検事を指していう、「何も考えないから偉くなるんだよ」というセリフが響いた。考えていたら、死刑なんてできないのだ。「いつか死刑のない日がくることを願って」乾杯しながら、死刑は実行されるというとても皮肉なラストだ。教育部長役の人がコミカルかつ歯切れもよくとっても上手かった(有名な役者でも私にはわからんのです)。

 

 『戦場のメリークリスマス』は好きだけれど『愛のコリーダ』は乗り切れず途中で観るのをやめてしまったし、大島渚監督の映画は観たいけれど怖いような、怖いもの見たさで観ている。