ひとり映画日記2

映画・本・イギリス(アメブロ『ひとり映画日記』から引っ越し

戦争について、身近な人について 2024.03.31

 今日は、パレスチナについて、今思っていること、考えていることを話そうという集まりに参加した。主催者の方の、「今から知るのでも遅いなんてことはない」という呼びかけに背中を押された。

 知ったかぶりをしない、自分を大きく見せず思っていることを言う。そう決めて参加した。床に座って集まりながら、誰も相手の話を遮らず、ぽつぽつと思ったことを話していく。私の言葉はたどたどしいけれど、今日はちゃんと伝えたいと思った。パレスチナへの連帯を示すバッジを作ったり、友人に、イスラエルがやっている虐殺について話をふってみたりしている人たちと接して元気が出た。

 『パレスチナのちいさないとなみ』という本を少し読んでみた。コーヒーの屋台を営む人や職人たちの写真、その人たちについて綴った文。こういう生活が壊されているんだと思った。

 私はSNSではわりとガンガン発言できる。けれど、知人や同僚といるときに、政治的な話をきちんとできることの方に、これからは重点をおいていくべきではないかと思った。ツイッターなら似た関心をもつ人が集まっているから、話せばきっと「わかって」もらえるし、届く。でも、たとえば私の父のような、一見デモにも関心のなさそうな人に、私は自分が感じていることを伝えているだろうか。イスラエルは悪いことをしているわけじゃないと言った知り合いの前で、なぜ何も言わなかったのだろうか。こういうときに、べつに相手を攻撃するではなく、私はそれは違うと思うと言える方が、思いもしなかった人に言葉が届くのではないだろうか。

 今日は『ネット右翼になった父』を買ったこともあり、父のことを考えていた。私は父と政治的意見や性格があまり合わず、仲良くはなれない。だからずっと無視していた。そうして、対話が生まれる芽も摘んでしまっていたのではないだろうか。

 

 まっすぐ帰ろうかと思ったが、帰りがけに「これからデモですか?」と聞いてくれた人がいた。色々な人と話せたことですっかり舞い上がって、デモのことを忘れていた自分を恥じた。そうだ、パレスチナのことを考えるのを、この場かぎりにしたら意味ないじゃん。もう一度ここから考え直すために参加したんでしょ。それからデモに行き、コールをして、パレスチナの歌をうたった。スピーチをした人たちの話は聞き取りやすく、どの話も心に響いた。特に、「台湾有事」と言われるわりには日本が植民地とした台湾や琉球―沖縄のことが忘れられ、基地として利用されていることを訴えているスピーチは、パレスチナのことと繋がっていると思った。沖縄のことも、ずっと無視してきた。マジョリティが無視してきたことが、一気に湧き出ている。

戦争を起こしたくないのに、反対の方向へと向かおうとしていることが怖い。

 

 帰宅後、父に珍しくラインをした。パレスチナのデモに行ったことを話した。今までどうせ関心ないだろうと思って話もしなかったが、私が関心をもっていることを知ってほしいと思った。私は、人の言動はその人が思っている以上に周囲に影響を与えていると思う。

デッドデッドデーモンズ(以下略)感想

 すっごく面白かった!配信でもいいかなと思っていたけれど、観に行ってよかった。この傑作を見逃すところだった。

 

 マンガの連載が始まったとき、変わったタイトルだなと思った。マンガは読んでおらず、どういう話かまったく知らないまま観に行った。キャッチコピーに「地球がクソヤバい!」とあるから、この主人公らしき高校生2人が地球を救うのかな。

 

 この物語では、ある年の8月31日に突如現れた円盤が、ずっと東京上空にとどまり続けている。米軍が撃ったものの墜落せず、その際の放射能で一部の地区は住めない状況になり、多くの人が家を失った。主人公の門出と凰蘭(おうらん)は、高校最後の一年を過ごしている。

 自衛隊と大企業は武器を用意し、円盤から出てきた飛行物体を撃墜したり搭乗員を殺害したりと、戦争状態に入っている。陰謀論を信じる者や、東京を離れるか離れないかで揺らぐ者など、「非日常」が始まっている。円盤のある異常事態が「普通」になっている(ならざるを得ない)状況だ。でも、「戦争のなかにある日常の素晴らしさ」を描く映画にはなっていないと思う。門出は、教師に「先生、今の状況ってどのくらいヤバいんですか」と問う。教師は「こうしていられるのは、まぐれか奇跡か、あの円盤の気まぐれかもな」と答える。そして劇中のモノローグが過去形であるように、この「平和な」状況はいつか終わるものだという予感とともに観る。本当はおかしいのだと、見ないふりをしているだけなのだと薄々気がついている。本当はまずい状況だけれど、通常の生活をおくり続ける。そうするしかないとも言えるし、それに甘んじているともいえる。2024年に観ると、戦争、パンデミック、災害などの脅威と常に隣り合わせなのに、のうのうと生活している自分と重なった。こんなに「今の空気感」とリンクしている映画はあまりないのではないかと思う。「防衛」の名のもとに武力が増し、家に帰れない人がおり、でも関係ないふりをしていられる人もいる。そうした間に、「戦争」はどんどん進んでいく。

 門出と凰蘭の友情、親愛がメインであるのも良かった。2人は、お互いに何かあれば絶対に駆け付ける。「空を飛べたら何がしたいか」という問いに、門出は「凰蘭のもとに飛んでいく」という。凰蘭も同じ気持ちだと思う。この2人を始めとする高校生たちの会話の「馬鹿馬鹿しさ」もすごく良かった。それにしても、あのちゃんの凰蘭の声ははまり役だ。

 

 謎の多い回想シーンもあったので後編が待ちきれない。果たして....!?だってあの回想場面が本当なら、今はどうなっているということ?

「デッドデッドデーモンズ」だけでいいだろうに、律義に「デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション」まで噛まずに読んだ映画館のスタッフに拍手。言い方もぶっきらぼうで素敵だった。

 

高速回転からの投げ出し 『ボーはおそれている』感想

 アフター6ジャンクションでは、「ボーはおそれているを観に行くか、ライムスターの武道館ライブに行くか、あるいは両方か」と話していた(公開日とライブの日が同じだったのだ)。(何も知らずに観たい人は以下読まないで)

 

 2月はライブもだが映画にさえ行けず、1か月ほど経ったいまようやく観ることができた。休日に3時間も観る体力はないし、こういうのは仕事が終わって脳がカッとなっている時の勢いで観るのがいいのだ。

 そう思って駆け込んだが、もう疲れた。最後は脚がパンパンになっている気がした。主人公のボーが実家に帰ると恐ろしいことが起こるという話だと思っていたが、実家に行くのはむしろクライマックスで、それまでに色々なことが起こる。まず、そこら中でケンカや殺傷が起きているような一帯の、好色の館などというアパートにボーは住んでいる。館内は卑猥な落書きだらけで毒グモもいる。そこで、突然「音楽の音量を下げろ」というメモが投げ込まれたり、水道が止まったりと不可解な現象が続く。このあたりの場面は怖く、不愉快で、よく不快な展開ばかり思いつくなと思った。ホラー映画は、自分が何を不快だと思うかが炙り出されていくので恐ろしい。

 そして、ボーが母の死を電話で知るところで恐怖はピークに達する。母がどのような状態で発見されたのかが言葉だけで描写されるが、それがおぞましいのだ。『ミッドサマー』みたいに急に映像で見せてきたらどうしようかと思った。でも、電話というシチュエーションと言葉の描写だけで恐ろしさは十分伝わるのだ。

 

 正直、ここから先は怖くなかった。展開はまったく予想がつかず、驚きの場面の連続だ。でも詰め込まれすぎており、話がなんだか分からなくなっているように感じた。轢かれたボーを助けた謎の医師や、そこから逃げ出したボーが出会う劇団など、不思議なところは多いのだが。終盤はあまり面白くなかった。

 詰め込んでいても面白い映画はある。好き勝手やっていて、脚本も設定も粗があって、なんなら映像もひどくたって面白い映画はある。話が理路整然としていないからとか、伏線が張り巡らされていないから面白さが半減するということではない。むしろ『ボーはおそれている』は映像もセットもしっかりしている。けれど、ホアキン・フェニックスの演技以外に魅力を感じなかった。エンドロールを観るまでホアキンが主演だということを忘れていた。この人がジョーカーを演じて、NYで踊っていたとは信じがたい。苦しそうな演技など見事だった。

 

 配信で観たら途中で集中力が切れていただろうから、映画館で観てよかった。ラストも、へーって感じ。体感としては、手をつかまれてぐるぐる回され、回っている間は楽しいけれど、手を掴んでいた相手が「じゃっ!」って急に放して帰ってしまう。こっちは地面に投げ出され、今の遊びはなんだったんだろうと思う。そんな映画体験だった。

全てがボーの心象風景だと言い切ってしまえばそれまでだけれど。私の大学の時のカウンセラーなら、「メンタライジングが落ちている」と言うと思う。ボーはとにかく不安だ。でもそれ自体はおかしいことではないと思う。母のことがなくとも、この世界は怖い。

安心して話せる場所 2024.03.20

 ずっと気になっていたカフェに行くと、大学生の頃の知り合いがいた。やっぱりとも思ったし、嬉しくなった。

 

 カフェで食べたサンドとコーヒーは美味しく、安心していられる場所だった。カフェのオーナーが「なめられやすいってね、なめてくる方が絶対悪いんだ」と言っており、目からウロコだった。私は「なめられないように」と最近常に気を張っていたけれど、なめられやすいことに罪悪感を覚えなくていいのだと、当たり前のことに気がついた。そう言えるって素敵なことだと思う。このカフェはセーファースペースだと感じることが多かった。もっと近くに住んでいたら通うのに。

 

 図書館、カフェ、本屋と移動を繰り返したので読書する時間が多かった。珍しく、1日で小説を読み終えた。山内マリコの『あの子は貴族』。読み始めたら止まらなかったのだ。言いたいことが沢山ある。この本を読んだ人の多くが、自分の経験を言葉にしたいと思っただろう。「日本は格差社会でなく階級社会」という文に胸を突かれた。『神前酔狂宴』も昨日読み終えたが、どちらも結婚が話の核になる小説だ。私もついに、まわりが結婚し始め、「結婚」の2文字がひたひたと忍び寄ってくるようになった。受験、就活、婚活と、常に追い立てられるように生きているのはなぜなのだろう。そんなにまでして、一体何を手に入れたく、何が手に入ったのだろう。贅沢な悩みといっても、この圧迫感は私には切り離せない悩みだ。

ディズニー再訪 レジェンドの子ども篇

 ディズニープラスに加入してみた。

 

 私の親や親戚はディズニーとジブリが教育に良いと思っていたのか、この2社のDVDは―まだDVD全盛の時代だったんです―やたらとある幼少期だった。一時期のディズニーは、有名作品の続編を作るのに凝っていたように思う。それも『アナと雪の女王』や『トイ・ストーリー』のようなピクサーシリーズのヒットを見込んだ続編というよりは、DVD向きの小さなストーリーだ。有名作の登場人物の娘・息子を主人公にしたもの。『わんわん物語』『リトル・マーメイド』『ライオン・キング』の続編があった。この記事の『レジェンドの子ども篇』というのは、シンバやアリエルの子どもが活躍する話だということだ。

 

 そんなシリーズの一つが、『わんわん物語II』だ。言わずと知れたディズニーの人気カップル、レディとトランプの息子、スキャンプ(父親激似)が主役。彼がのら犬に憧れ外の世界に飛び出す!子どもたちは親が捨ててきた世界に憧れる、というのがこの子ども続編モノの定番だ。話自体は割と他愛なく、起承転結はしっかりしていて面白い。歌もたくさんあって、意外にいい曲も多い。『わんわん物語II』だと、のら犬たちが歌う「廃品置き場の歌」はけっこういいと思う。♪そうさここは 廃品置き場 俺たちの天国さ

 

今見ると、おぼっちゃんがストリートの世界に憧れる話だ。のら犬のリーダー、バスターはこういう不良男性いるなと思わせるキャラクターでけっこう上手いのだ(?)。バスターに「俺の女」呼ばわりされているエンジェルという犬が唯一、スキャンプに「ここはあなたのいるべき場所じゃない」と伝え続ける。耳を貸さないスキャンプだが、結局バスターに騙され、自分がしたことの愚かさを反省する。この話には「親の言うことを聞こう」という説教臭い部分もある。だが、自分が憧れていた「アウトローな格好いい男性」は結局張りぼてだと気がつく、という展開は苦くもリアルだ。反権力で格好良く見えても、まわりの人(犬)に横暴に振舞っているようではダメなのだ。「俺はこんなに凄い」という人がいざとなると逃げだすようなものだ。

 

 と、大人になるとまた違った意味で楽しいディズニー再訪だ。そして翻訳も良いのだと気がついた。例えばバスターの口癖は「Beautiful!」。これは日本語吹き替えでは「ご機嫌だぜ」となっている。うーん、上手い!自分がセリフを隅々まで覚えていることにも驚いた。よほど何回も観たのだ。

 

身体を動かす 2024.03.14

 今日、生まれて初めてボクシングをやってみた。うまく当たった時の快感、ひたすら身体を動かす良さ。終わった時解放感があった。

 

 仕事、というか職場のことを考えると気が重い。死にたいといつも考えている。この気持ちを打破するには、身体を動かすのが一番いいんじゃないかと思う。

 

 私は自分の外見、ジェンダー、声といったことからなめられやすく、見下されがちだ。ボクシングをやった時、私の奥底にはこんな力があったのだと驚いた。この小さい身体に正確さも、負けん気も、力強さもあったのだ。講師が、初心者の私でもやりやすいように加減してくれていたとはいえ。自分には力があると思い出すことは必要だ。

何だってやってやる 2024.03.10

 引っ越し、ようやく机が届いたので、あまり疲れずにブログが書ける。お金がないのに引っ越しまでしてしまったから、いよいよ本当にお金がない。

 

 でも、好きな町に引っ越して良かったと思う。引っ越し代や敷金は高いけれど、長期的に見ればいい判断をしたと思う。

 もっと、突発的に行動しても良いんじゃないかと思ったのだ。働いていると、毎日決まった時間に動き、ミスや失礼がないよう頭を働かせ、言われたとおりのことをしなければならない。それがとても疲れる。呪いみたいに私の舌や手足を縛る。海に行きたいのに、仕事を「サボって」まで、全然違う路線に乗る勇気が私にはない。「普通列車絶望行き」(これは穂村弘のことばだ)に乗り続けている。

 だからたまに、予定調和を壊さなければならない。前の家に住み続けていれば苦労もなく、同じ日々を繰り返せることがわかっていた。でもそんな毎日から外れたかった。引っ越しは、無理やり環境を変えるための手段の一つだった。

 

 親が経済援助を申し出てくれたけれど断った。親が大金持ちなら甘えたけれど、べつに特別稼いでいるわけではないから。「家族だから」という理由で、かれらが稼いだお金からもらうのは不条理だ。お金がなくて、不安で夜中や休日の昼間に泣く。パニックで心臓がばくばくする。そのことに腹が立つ。いまの物価高や給与の低さで満足なんか、「足るを知る」なんかしてやらないぞ。給与を上げ、政治を変え、生活をもっと良くするのだ。みんな大変だから我慢しようという考えが嫌い。私はもっと求めるべきだ。

 お金をためて、年末に台湾に行こうと思う。めちゃくちゃな世の中で、私がいい子にしてやるいわれはない。