ひとり映画日記2

映画・本・イギリス(アメブロ『ひとり映画日記』から引っ越し

バービーが背負ってきたもの――映画『バービー』

 「バービー」を映画化するなんて、どんな話になるんだろう?やや不安を覚えながらも、『若草物語』のグレタ・ガーウィグ監督ならと楽しみにしていた。

 

『バービー』ポスター。ハート型の手鏡をもつバービーの後ろ姿が映っている。鏡のなかのバービーはこちらにウィンクしている。

....「バービー」の枠を借りジェンダー不平等を描くなんて、さすがだった。映画『バービー』ではバービーたちが暮らす「バービーランド」と人間が暮らす「リアルワールド」(日本語字幕では人間界)に分かれていて、本来は行き来できなくなっている。「バービーランド」ではバービーたち女性が世界を治め、女性がどんな分野でも活躍している。皆が互いをほめケアし合うハッピーな世界だ。さまざまな人種や立場、体型、職業の女性がいて、誰もが「バービー」。「バービー」はスリムな白人女性の人形に始まりつつ変わってきたのだというから。

 それでも、マーゴット・ロビー演じる「典型的なバービー」(「完璧」なプロポーションの白人女性)に異変が起きる。人形は死なないのに、タブーである「死」について考えたり、脚にセルライトができたりするのだ。解決するには持ち主に会うしかない、と言われたバービーは嫌々ながら「リアルワールド」へ向かう。バービーを好きなケン(ライアン・ゴズリング)もちゃっかりついてくる。

セルライトや老化の何がいけないのか、と思う人は安心してほしい。そこへのアンサーをガーウィグ監督が逃すはずはない。

 

バービーランドとリアルワールド

 持ち主と人形は一緒にいつつも、『トイ・ストーリー』のように共存(?)するのではなく、人形は人形で別の世界に住んでいるという設定が面白いと思う。人形だからお茶を飲んだりシャワーを浴びたりする必要はなく、全部「ふり」、フェイクだ。とはいえ、バービーランドは羨ましいと思った。大統領は黒人女性、政治はオープンで争いやいがみ合うこともない。要職に就いているのは女性ばかりだ。

 対称的に「リアル」ワールドはどこもかしこも男性ばかり。劇中の台詞にあるとおり、「家父長制をうまく隠して」男中心で回っている社会なのだ。バービーはショックを受け、バービーランドでは軽く扱われていたケンは魅了される。「リアルワールド」ではお茶ももちろん「本物」だけれど、それだけでなくこの男性中心社会こそが「リアル」であるというのは強烈な皮肉だ。

 では「バービーランド」は男女の立場をひっくり返した「女尊男卑」な世界かというとそうではないと思う。中盤でケンがバービーランドを「ケンランド(ケンダムランド)」にしようとするところで、「バービーランド」との対比が見えてくるからだ。リアルワールドの男性中心主義を参考にしたケンランドでは、女性は「お飾り」で、「男らしい」男だけが輪に入れる排他的な社会だ。バービーは確かにややケンを軽く扱っていたけれど、「バービーランド」自体が男性を差別しているかというと、少し違うように思う。(でもやはり「男性」の地位は女性より低く描かれているようにもみえるし...どうなんだろう)

 バービーランドの「ガールズナイト」が「女性だけ」(自分を女性だと捉えている人ということだと思う)なのに対し、ケンランドの「ボーイズナイト」が男性中心でありながらウェイトレス役として女性を入れているところがなんとも「リアル」。男性中心に加え、女性はあくまで「おまけ」であり、「男らしくない男」は入れないという姿勢を崩さないところが男性社会の嫌な面だ。

 決して「男性対女性」にしているわけではなく、「ケンランド」に居心地の悪さを感じる男性も何人か出てくる。バービーたちがそんな「ケンランド」から世界を取り戻すやり方も、また見事に皮肉が効いている。「男性」を生きてきた人には、ひやっとする場面も多いのではないだろうか。

 

バービーが背負ってきたもの

 私は「バービー人形」があまり好きではなかった。それこそ、バービーの持ち主グロリアの娘サーシャが言うように、スリムで白人で.....という「美の規範」を押し付けているように思っていた。また「バービー」という名前が「頭が空っぽな女性」の代名詞のように使われることにも違和感を抱いていた。

 『バービー』を観て、女性の立場が下だった社会で、バービーもまた多くの期待を背負ってきたのかもしれないと思った。グロリアが言うように、「女性」は矛盾したことをたっくさん期待されてきた。美しくあれ、でも目立ちすぎるな、いい母であれ、でも仕事もしろ、子どもの自慢ばっかするな。付け加えるなら、フェミニズムもまた、作家のロクサーヌ・ゲイが言うように「フェミニズムは~~の問題には無関心」「~~だからフェミニズムは不完全」と「不完全さ」をやたらと指摘されてきた(詳しくはロクサーヌ・ゲイの『バッド・フェミニスト』参照)。バービーもまた、批判を受けかわりつつ、それでもなお「完璧」が求められていたのかもしれない。これが「男性人形」ならここまでのプレッシャーはなかったんじゃないかな?

 グロリアは「普通」のバービーが必要だと言った。完璧でない、何者かになりたい、なりたくないかもしれない女性のバービー。「らしくある」ことが大事.....と私も思いつつ、でもそのらしさは「バービー」含めた文化にも多大な影響を受けているから、どこまでが「私らしい」かはずっと問われていくのかも。

 それで、元に戻って良かったね、と言えるかというとそうではない。変わらないといけないのは「リアルワールド」だ。バービーを手掛けるマテル社だって未だに男性ばかりがトップだし、女性の大統領がいないという現実も変わっていない。マテル社がグロリアをきちんと「普通のバービー」開発に関わらせるかどうかもやや心配だ。そこを変えていくのはお前たちだぞ、と観客をアジテートしているようにも思えた。

 

 

(余談1)

ライアン・ゴズリングをケンにキャスティングしたのは大正解だと思う。作家の松田青子がエッセイで「異常にロマンティックな中二病みたいな役ばかりしている」と書いていたが、そういう彼の良さがよく出た「ケン顔」だった。アラン役のマイケル・セラもいい味出している。

(余談2)

私は「変てこバービー」が一番好きだ。最後には「変てこ」と呼んでいたことを謝罪され、大臣に抜擢されていたけれど、彼女にはみんなとつるまないでいてほしいなとも思う。

 

(余談3 もうバービーとあまり関係ない話になる)

最近知り合った人と、「ヒプノシスマイク」の描く「男女逆転した社会」はちょっとずれている、という話をしていた。その話をしたあとで『バービー』を観ると「男女逆転した社会」でジェンダー不平等を描くってここまでしないとできないよねと感じ入った。単に女性が力をもち、男性が苦しめばいいというものではないはずだ.....。「マジョリティ」と「マイノリティ」が反転した社会は不平等さをわかりやすく見せるものの、単純に置き換えただけではだめなのだと思う。

 

追記

SNSで「バービーランド」は「「変てこバービー」などを周辺に追いやっている」ことや「役割が固定されている」という指摘を読み、自分の稚拙な感想が恥ずかしくなった。Filmarksのレビューにも書いたけれど、私の根底に、自分はこの映画を「正しく」読み解きたい、読み解けるというマッチョな欲(?)があるんだと思う。『バービー』が批判している部分が浮き彫りになった.....。